万夜一夜物語

万夜一夜物語(よろずやいちやものがたり) 自分の思考や気持ちを整理して記載していくブログです。自分を前に進めるために、残していくために。

労働時間と成果と報酬(東京新聞の「残業代ゼロ」に関する社説を見て)

近頃話題の「残業代ゼロ」案に関する東京新聞の社説を読んだ。

東京新聞:残業代ゼロ案 アリの一穴が狙いでは:社説・コラム(TOKYO Web)


主題の部分と少しずれてしまうが、違和感を感じる部分があったので、ここに記載。

“労働時間でなく成果で評価されるようになれば、従業員は成果が出るまで働き続けなければならない。企業は労働時間を気にしなくてよいから従業員が疲弊していようが成果を求め続ける。毎年百件以上の過労死が社会問題化する中、時代に逆行し、そればかりか残業の概念がなくなれば過労死の労災認定そのものが困難になる。”

記事の中にある、従業員の立場が会社に対して弱い、という点は考慮したほうがいいと思うし、この法案に寄って、不当な不利益を被る人がでないようにすることは非常に重要だ。

ただ、この文中にある「労働時間でなく成果で評価されるようになれば、従業員は成果が出るまで働き続けなければならない」という点には非常に違和感がある。
(細かいところだが、「残業の概念がなくなれば過労死の労災認定そのものが困難になる」についてもそんなことはないだろう、と思う)

まず、あたかも、現状労働時間が評価されているかのような書きっぷりだが、前提として評価は「労働時間」ではなく「評価」で行われるのがどう考えても正しいだろう。長く働くのがよい労働者ではなく、良い成果を出す労働者の方がよい労働者だろう。

「労働時間が大事」という人は、そもそも報酬が何によって支払われるのかを考えた方がいい。
報酬の原資は企業の売上から発生する。売上は企業の提供した何かしらのサービスなりものなりの対価としてお客様から頂くものだ。
企業の売上が発生するのは、従業員が長く働いているからではない、お客様の期待に応えられるような価値を生み出しているからだ。
成果が出ていない場合、それは企業の売上には繋がっていないのであって、その意味においてはそもそも報酬に値しない。

マネジメントや仕組みがしっかりしていれば、適切な労働によって成果を生み出せる除隊にはなっているであろうから、残業をしている時間についても、その時間に見合った成果が発生していると基本的にはみなされる。
だから、残業代はもちろん拘束時間に対して支給されているものではあるけれども、ある程度生み出したとみなされる成果への報酬として支払われている、という意味合いで捉えるほうが適切だと思う。

企業の一員として働く以上、「成果を出す」ことが求められるのは当然のことなのだ。

東京新聞の社説は、その前提のずれがあるので、非常に読んでいて引っかかった。

ちなみに、細かい部分ではあるけれど、「残業の概念がなくなれば過労死の労災認定そのものが困難になる」もそんなことはなくて、これは現状の「残業X時間以上」で考えようとするからそうなるだけであって、労働総時間の記録は、残業代の有無とは別に可能なのであるから、それを測定して基準として適用すればいいだけだと思う。

法案に対してネガティブだからといって、あれこれケチをつけるような書きっぷりは良くないな、と感じた。